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日が変わってしまったが、3日は節分ということで、今年もいつもの行事をした。
行事というのは、豆まきと、巻き寿司の丸かぶりである。ひとり暮らしもなんのその、毎年続けているのである。
21時に仕事が終わり、帰りに近所のスーパーへ。398円の巻き寿司が、半額で売られていた。これ幸いと、買い物カゴに入れる。
次は豆だ。豆といえば、殻付き落花生に限る。なぜかといえば、豆をまいた後で殻を剥いたら食べられるからだ。小さい頃から僕の家ではそうだったのだが、世間ではどうやら違うらしい。一般的には煎った大豆を使うらしいが、そんなのもったいない。鬼への攻撃も、殻付き落花生の方が威力があるように僕は思うのだ。
余談はさておいて。店内を見渡すも、殻付き落花生が見当たらない。こんな節分の日ぐらい巻き寿司のように特設ブースを設けて、落花生に限らず、もっと豆をアピールしてもいいものを。
仕方なく店員に訊ねる。
「落花生ありませんか?」。
すると案内されたのは、おつまみのコーナー。そこにあったのは、少量の袋に上品に入れられた殻無し落花生だった。まさか、“殻無し落花生”という商品が売られているとは。「落花生」といえば「殻付き」が、世界共通の合い言葉だったのではないのか。
「落花生はこれだけですか?」。
念のために訊いてみた。
「はい、これだけです」。
なんとも寂しい時代になったものだ。今日は節分なんだぜ。節分といえば、豆まきだろう。空想を働かせて見えない鬼を退治する、日本が誇る冒険的正しき風習なんだ。巻き寿司の丸かぶりなんかよりもはるか昔に始まったってのに、ずいぶんと軽んじられたものである。僕が小さかった頃は、落花生に限らず、豆がよく売られていたけどなあ。鬼の面がおまけに付いていたりして、子供心にうれしかったものだ。西洋の風習であるバレンタインデーのチョコレートを特設ブースに積み上げる前に、日本人よ、豆を積み上げたらどうなんだ。
スーパーを出て辺りのコンビニを見てまわるも、殻付き落花生はなく。あんなに広い店内に、殻付き落花生が節分の日に置いていないわけがないと、もう一度確認のために再びスーパーへ。
すると、なんと入口から入ってすぐの片隅に、ひっそりと殻付き落花生が置かれているではないか。店員すらも見落としてしまうような地味な陳列ではあるが、一応特設ブースの役割を果たしている。安堵と共にうれしが込み上げた。
だが、値段が気になった。国産の落花生が160g398円で売られているのに対し、中国産の落花生は、およそ1kgで498円。安いんだか、高いんだか。
しばらく迷ったが、国産の殻付き落花生を買い、ようやく帰宅する。
ライブの練習をした後で、豆まきを開始する。玄関と窓を開けて、準備完了。
「鬼は〜外。福は〜内」。
特に声は張らないし、豆をフルスイングで投げたりもしないが、室内の全域に豆をまき、終了する。
投げた豆を回収した後で、次は巻き寿司の丸かぶりだ。今年の恵方である西南西を方位磁針で探り、かぶりつく。

うまい。欲を言えば、これとあとイワシが食べられたら最高なのだが。
方角の話が出たので、ついでに僕の家のミステリーを記す。

僕の家は4畳と6畳のふた部屋があり、この画像は4畳の部屋で撮ったものだ。しっかりと針が北を差し、なんの問題もない。
だが隣の部屋はといえば、

このように、およそ10度ほど狂いが障じている。これは一体なんなのだろう。何か特別の磁場が働いているのだろうか。安眠がしやすい部屋ではあるのだが。
夜中に仕上げるはずが、そんなこんなで途中で眠ってしまい、すっかり朝になってしまった。本日2月4日は、このサイト「夜士郎の世界」の開設2周年記念日です。今後とも、「夜士郎の世界」をよろしくお願いします。
1995旅日記 目次
1995年7月12日
今朝も七時前に起きる。ここのところ、素晴らしく規則正しい。
洗い場に行くと、二種類の水があることに気がついた。飲み水と洗い水。そうか、昨夜炊いた米の水は洗い水だったのか。道理でうまくなかったわけだ。
食事を済ませ、出発する。今日は充足の日だ。温泉に浸かって、日記もたくさん書いて、うまい食事をして、たくさん満喫するのだ。
目指す阿寒湖の40kmほど手前の公園でバイクを停めて、たまっていた日記を記した。

2時間ほど記したところで雲行きが怪しくなってきたので、再び進む。
阿寒湖国立公園に入ると、急に寒くなりだした。道路沿いの森の木も針葉樹に変わった。寒い地域というわけか。
本日泊まるキャンプ場を見つけるも、通過。多くの土産物屋と、ホテルなどが建ち並ぶ街道を行く。
さて次は何をするか。温泉に入るか、食事をするか。食事はラーメンがいいなあ。一軒あったので、中を覗いてみたら八百円だった。高い。観光地だからだろうか。
とりあえず食事は後にして、ひとまず温泉に行くことに決めた僕は、公衆浴場がないかを訊こうと一軒の土産物屋に入った。
そこにいた店員の女性と目が合った。無茶苦茶キレイな人だった。長い黒髪をひとつに束ね、どこか動物的な野性味のある目をしていた。豪快なという意味ではなくて、むしろ繊細な雰囲気。そうか、アイヌの人だ。ここ阿寒湖にはアイヌ部落があり、数々の民芸品が売られていることでも有名だった。
そのアイヌの女性(おそらくだけど)に、公衆浴場の場所をドギマギしながら教えてもらった。ひと目惚れしてしまったかも。土産はあの人の店で買おうと決めた。
公衆浴場の駐車場にバイクを駐めて、まずはそこから歩いて阿寒湖へ。遊覧船が停泊していて、多くの観光客の姿が見えた。はっきりとは覚えていないが、幼少の頃僕はここに来たことがあると思った。
公衆浴場「まりも湯」は一見銭湯のような佇まいだが、立派な温泉である。用心のために全荷物をバイクから下ろして、中へ。入浴料は三百二十円だった。
浴室は僕ひとりだけだった。久しぶりの入浴。全身隅々まで洗い、ヒゲも剃り、湯に浸かる。幸せを感じた。サッパリした。
温泉から上がり、服を着替えて心機一転。休憩室で、残りの日記を十七時まで記した。
「まりも湯」にいる間、夕立が一度あってその後雨は止んだものの、雲行きが依然怪しい。日記がまだ終わらなかったが、浴場のおばさんに教えてもらったスーパーに行くことにした。
スーパーは、土産物屋と、酒屋と、雑貨屋と、薬屋が合体したような感じの所だった。食料は少なかった。せっかくキャンプ場が近いので、昨夜から楽しみにしていた焼き魚が食べたかったのだけど、仕方がない。パンと弁当を買って店を出た。
雨が降りだした。陽も暮れてきたし、急がなければ。だがそのスーパーを出て少し行った所に、なんと合体スーパーではなくて、ちゃんとしたスーパーがあるではないか。どうやら僕は間違えたらしい。残念。明日こそは、魚を食べよう。
キャンプ場へ。入場料は四百円だった。テントを張る。雨はぽつりぽつりと、降ったり止んだり。今は止んでいる。
とここで、ようやく日記が現在に追いついた。今テントの中で記している。妙な感じだ。タイムマシーンでもなくたかが日記だが、やっと過去から現在にやって来れた。ここまで長かった。少し感動している。今は十八時半頃だろうか。まだ今日の出来事は続くので、一旦ここでペンを置く。
アイヌ部落に行ってみた。土産物屋には、木彫りの工芸品や、アイヌの着物などが並べられていた。
広場にある大きなトーテムポールに目が止まった。うっすらとした幼少の頃の記憶が蘇る。
<このトーテムポール覚えてる。やっぱりそうだ。昔僕は、ここに来たことがある>。
アイヌ部落を抜けると、さっき買い損ねたスーパーが見えた。中に入る。やはり魚が売られていた。せめてみそ汁の具にと、イカの練り揚げを買う。
数々の土産物屋を見てまわった中で、鹿の角の首飾りが土産にほしくなった僕は、ならばあのキレイなアイヌ人と思われる女性の店で買おうと、行ってみることにした。もしかしたら、公衆浴場を教えてもらったお礼を言ったりする中で親しくなって、「一緒にお食事でも」なんていう展開もあり得るかもしれないなと、旅人の勝手な空想をしながら店内へ。店ではあの女の人と、他に男の店員が二、三人いた。彼女は髪を下ろしていて、背がとても高く見えた。
鹿の角の首飾りは、残念なことに男の店員の前に置かれていた。千五百円だった。僕の所持金は二千円。買えないこともないが、なかなか手がだせない。
不意に店員が、「旅人ですか?」と訊いて来た。「はい」と答えると、店員は饒舌に喋りだした。
「僕は歩いてですけど、旅をしたことがあります。大きいですよね、旅のおカネは。だけどメシは買ったりもらったりして何度でも食べられるけど、この鹿の角はそうは行きませんからね」。
なるほど、うまいことを言う。その店員の雰囲気からして、軽口を叩く風には見えない。ここは買い時だと思い、買うことにした。
それから店の奥にも行ってみた。あの女の人がいた。だけど昼間見た時と違って、髪を下ろしていたからかもしれないけど、なんだか別人に見えた。悪いが、少し老けて見えた。この店の誰かと結婚しているのかもしれない。僕のひとり旅は、これからも続くのだった。
テントに戻り、イカの練り揚げを入れたみそ汁を作った。作っていると、痩せた小さなキツネが現れた。一昨日のように、僕はもう驚かない。イカの練り揚げを差しだすと、「北の国から」の蛍のキツネのように、手渡しで食べた。
みそ汁と一緒に弁当を食べる。そういえばこの弁当は普通の量なのに、沖縄的に安くて二百六十円だった。
食事を済ませ、キツネもいなくなり、久々に湯を沸かしてコーヒーを飲んだ。うまい。うまいので、今二杯目を飲みながらバンをかじり、この日記を記している。
今日はこれでもう寝ようと思う。ここは涼しくて、過ごしやすい。いいキャンプ場だ。管理人のおばさんも、泊まり込みで頑張っている。
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夜想回記 目次
※この記事は、独唱パンクのフリーペーパー「隔月刊独唱パンク誌」の2009年7月22日発行号に掲載された内容に、新たに改訂を加えたものです。
そのお誘いがあったのは、2001年の11月頃だった。関西の大音楽イベント「春一番」に出ないかと、主催の阿部 登さんから直々に、出演依頼の連絡を頂いたのだ。
「春一番」は、阿部 登さんと福岡風太さんが発起し、1971年から始まり、毎年春に行われてきた野外イベントだ。1979年で一度終わった後、1995年に復活。関西フォークの大御所を始め、有名バンド、有名歌うたいが一堂に会する中で、無名のインディーズもちらほらと出演していて、関西で音楽を志す者にとって、憧れのイベントだった。
その「春一番」に、ついに出演することができる。涙するほどに僕は喜んだ。
阿部 登さんに初めて会ったのは、2000年の春頃だったと思う。「春一番」の前夜祭イベントが、大阪は梅田のライブハウス「HARD RAIN」で行われることを知り、お客として観に行った時だった。
イベントの終演頃に飛び入り出演枠があって、その場にいたストリート仲間の推薦で、僕が急遽歌うことになった。そこで僕は、ここぞとばかりに「春一番」に出演したい想いを訴え、熱く歌ったのだが、終演後、そんな僕に気さくに話しかけてくれたのが、阿部さんだった。
阿部さんは言った。「「春一番」に出たいのなら、まずは君の活動情報を送ってみてくれ」と。
それ以来、阿部さんに毎回活動情報を送り続け、そうしてつかんだ「春一番」の出演依頼だったのだが、うれしかったのは、阿部さんは単に毎回届く僕からの活動情報だけで出演を判断したのではなくて、実際に2回ほど、お忍びで僕のライブに足を運んでくれていたのだということ。
こんな無名の、どこの馬の骨かもわからない僕にしてくれた阿部さんのやさしさが、たまらなく沁みた。
2002年になり、前回記した「独唱パンク」のオムニバスCDに向けた音源作りなどで瞬く間に冬は過ぎ、季節は春へ。刻々と「春一番」の出演の日が近づく中で、「独唱パンク」の音源作りの時にも感じた同様の緊張感に、僕は追い詰められていた。
音、演奏、観せ方、そして音楽に対する姿勢。それらを踏まえた上で、僕の音楽は「春一番」の観客にはたして受け入れてもらえるのだろうか。だが一方では、出演するからには最高のステージで、ストリートから始めて歌って来た、およそ10年間の僕の集大成ともいうべき、今までで最高のライブをしたいという欲張った想いもあり、そういった自らの到達点を高めるが故の緊張もあった。
どちらにせよ、解決するには練習するしかない。
そんなこんなで、たった3歌、演奏時間15分のライブを極めようと、近所に開店したばかりのスタジオに、毎週のように通っていた僕だった。
そうして迎えた5月5日。前日の雨は上がり、快晴。3日間イベントの2日目。会場は、2700人の収容を誇る「服部緑地野外音楽堂」。
楽屋などで、大好きな憧れの出演者の皆さんとすれちがう。ライブのイメージトレーニングは、出演依頼を受けてから半年間みっちりしていたのだが、この辺は想定外。本当に僕なんかが出演していいのだろうかと、今さらながらにおじけづく。
出演は3番目。12時前ぐらい。だが会場は、早くからすでに満員であった。

出番直前、ココロもカラダもほぐそうと、必要以上に柔軟体操をしまくった。ここまで来たら、とにかく自分を信じるしかない。体調は万全。演れる。
そしてついに、僕の名前が呼ばれた。阿部さんに紹介されて、ステージへ。リハーサルがなかったので、急いでセッティングする。
ギターアンプとベースアンプに、それぞれのエフェクターをつなぐ。こんなややこしくて不真面目なセッティングは、「春一番」史上、おそらく僕が初めてだったにちがいない。どうなるかと思ったが、なんとかギリギリの希望する音が出てくれた。
「さくらんぼ」と、「センタン」と、「音楽の神様」を演奏した。
1歌目後のMCでは、持参したカメラで記念にと会場を撮影し、2歌目では、コール&レスポンスに挑戦。およそ2,700人の大合唱をもらった。2歌目後のMCでは、突然風太さんが現れ、ステージの僕を僕のカメラで撮影してくれて、会場が湧いた。その勢いに乗り、3歌目を熱唱。


僕の「春一番」が終わった。最高のライブとまでは行かなかったが、あたたかいお客さんと、スタッフの皆さん、そして阿部さんと風太さんに支えられ、大きなミスもなく、楽しく演奏することができた。
ライブ後は、観に来てくれたかつての京橋ストリート仲間のRIKIと、客席でビールを大いに飲み、盛大に打ち上げ、喜びを分かち合った。
この日のライブが、“参田夜士郎”としての最後のライブとなった。宣伝した活動情報には“最後のライブ”とは記さずに、代わりに初めてライブをした1994年9月25日からこの日までの出演した全ライブ日と、全会場名を載せたチラシを同封した。
この日、ただ歌うことが好きで、ギターを始めたひとりの若者のひとつの夢が叶い、そして、長きに渡るひとつの物語の幕が閉じた。
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1995旅日記 目次
1995年7月11日
昨日と同じく、七時前に起きる。食事をして、この日記を書き、出発は十時を少し過ぎた。

キャンプ場は下川町に抜ける道の途中にあった。来た道を進み、下川町を目指す。また例のごとく舗装が途切れたが、もう昨日のようにはいちいち驚かない。
しばらく行くと工事をするおじさんがいて、「ここから先は林道だから行けないよ。もうひとつ道があったろ。そっち側行きな」と教えられる。行こうとすると僕のバイクのナンバーに気づき、「あら奈良から来たの。俺も四月まで吉野にいたんだよ」とおじさんは言った。こんな北海道の山奥で、奈良(大阪から来たのだけど)の話題になるとは。意外で愉快だった。
道を引き返ししばらく行くと、道の真ん中にシカが現れた。カラダに白い斑点がある。子ジカだ。バンビだ。昨夜はキタキツネに出会い、今朝はエゾシカ。僕は順調に北海道を堪能している。
工事のおじさんに教えられた道を行く。完成前の道は両脇に真新しいガードレールはあるのだが、路面は砂利道で大変走りにくい。ハンドルをしっかり握っていないと、砂利に流されてしまう。汗だくになりながら進む。
その状態で3kmぐらい進み、ようやく舗装された道になった。舗装道路の快適さに改めて感動し、ココロから感謝した。
下川町に着き、ガソリンスタンド「ホクレン」で給油する。今回もハイオクを入れた。明日とどめにもう一回入れてやれば、キャブレターの調子も上がるだろう。
サービスで、「ホクレン」オリジナルの地図をもらった。道南編だった。道東編がほしかったのだが、まだ入って来ていないのだそうな。
「ホクレン」を出てしばらく行くと、バイク屋があった。タイヤがあれば後輪を交換しようと思い、寄ってみる。だが、僕のバイクに合うタイヤは置いてなかった。
「いやあかなり減ってるな。雨に気をつけな」と店のおじさんは言い、紋別市にある「林モータース」だったらあるかもしれないと教えてくれた。そこでもなかったら、北見市のバイク屋に行くことを勧められた。北見市にはタイヤの問屋があるそうで、必ず手に入ると言った。
おじさんは昔、三重県の鈴鹿まで本州を走り行ったことがあるそうで、出発する時に交換したばかりのタイヤが、着いた頃にはツルツルになっていたのだとか。
紋別市を目指す。しばらく行くと、オホーツク沿岸の道に再び出た。雄大な景色に感動する。


オホーツク沿岸の道を少し南下した所が紋別だった。ほどなくして「林モータース」を発見。僕のバイクに合うタイヤの有無を訊ねると、「ない」と言われ、「北見に行きな」と店のおじさんは言った。試しに向かいのバイク屋に行くも、同じことだった。
流氷の町:紋別を足早に過ぎて、北見を目指す。
途中腹が減ったので、道沿いのラーメン屋「ふくちゃん食堂」に入り、七百五十円のみそラーメンを注文する。ラーメン鉢からこぼれるほどにたくさんスープが注がれていた。わりとうまかった。マンガを読みあさり、一服して出る。サービスで、ライターと「ふくちゃん食堂」オリジナルの地図をもらった。
さらに寄り道をして、サロマ湖へ。海と湖がギリギリつながっている汽水湖だ。その海と湖につながる突端まで行く。
駐車場にはバイクが四台駐まっていた。バイクから降りて砂浜に行こうとすると、防波堤で男女四人の若者がいて、座りながら何やらしている。よく見ると防波堤に敷かれた新聞紙の上には、大量のエビとその剥かれた殻が置かれていた。四人はエビを食べていたのだ。
「ねえ、食べて行って!」。
気さくに声をかけられて、遠慮なくお邪魔する。実にうまかった。地元の漁師の方が、「サロマ湖のエビだ」と言ってくれたのだそうな。僕の後から車でやって来たおじいさんやおばあさん達にも四人は声をかけ、振る舞った。
<こういう交流がいいな>。
エビを食べながら、見るからに冷たそうな海と青い空を眺めて思った。

四人の内三人は長野から来ていて、ひとりは網走の人だった。彼らに礼を言って、その場を後にする。
少し雲行きが怪しかった。さっきの若者の中のひとりのコが雨女らしく仲間にからかわれていたけれど、そのせいなのか。だが北見に入る手前頃から、再びよくなった。
今日は昨日に比べて道に迷うことがなく、旅の進行がいい。地図の情報を鵜呑みせずに、実際の標識を確認しながら目的地を目指した方が、どうやら確実のようである。
北見市街に到着。北見は今までに訪れた北海道の街の中で、札幌の次に大きな街だった。人に訊き、ようやくバイク屋を見つける。
店に入り、早速僕のバイクに合うタイヤの有無を訊ねると、営業の係らしい口数の多い店員がタイヤを探してくれた。
「はいはい、「VT」ね〜」。
さすがタイヤ問屋の街:北見。同じサイズのタイヤこそなかったものの、1cm太いタイヤがあり、それでも支障はないと言うので、タイヤ交換をお願いする。その間僕は、カネを下ろしに郵便局へ。
もどると作業係の兄ちゃんが、「ホイール抜けないよ〜」と悪戦苦闘していた。作業が終わるのを待つ間、冷茶をだしてくれた営業係の兄ちゃんに、網走の温泉やキャンプ場の情報を訊いた。
しばらくして作業係の兄ちゃんが、「終わったよ〜」とやって来た。消費税なし、工賃なしの、タイヤ代のみ一万五千四百円で済んだ。
「もう会うことはないけど、気をつけて」と、笑いながら営業係の兄ちゃんは言った。礼を言って、店を出る。
陽が傾きだした。キャンプ場に行く前に、「網走刑務所」を目指す。
新しいタイヤにしたおかげで僕は躊躇なくアクセルを吹かし、本来の走りをここに来てようやく取りもどした。今まですり減ったタイヤのことが気になって、抑え気味に走っていたのだ。快調に進む。
網走湖が右手に続く道で峠を越える時、雪を冠った知床の山が遠くに見えた。夕陽を受けて、とても美しかった。
「網走刑務所」に到着。駐車場に駐めようとしたら、百円を払わなければならないとのこと。どこか他にないかと見渡すと、刑務所からの橋のたもとにバイクが三台駐まっていた。そこにいたバイク乗りに話を聞くと、刑務所の入口までバイクに乗って写真を撮りに行き、そこで看守が出て来たが、何も言われなかったのだそうな。なので僕もバイクに乗って入口へ。写真は撮らずに入口の門をしげしげと眺めていると、聞いていたように看守が出て来たが、僕に対しても何も言って来なかった。
訪れる多くの人が、入口の門の前で入れ替わり立ち替わり写真を撮っていた。なぜに彼らは写真を撮るのだろうかと、疑問に思った。最北端にある刑務所だからなのか。そう言う僕も、観光という好奇な気持ちで訪れてはいるのだけど。
看板があり、刑務所の概要が記されていた。明治大正の頃、服役者達が任務として札幌〜網走間の横断道を作り、その際に二百人の犠牲者が出たとあった。
近くの体育館からは剣道だろうか、竹刀のぶつかり合うような音や、「オーッ」とかけ声が聴こえた。僕は所在なく、もう行くことにした。
陽が暮れかかっていた。すぐにでもキャンプ場に行きたかったが、その前に食料を用意しなくては。来るまでに品のいい観光ホテルばかりが並んでいたので、この近辺での食料調達は困難かと思われたが、やがて運よくコンビニエンスストアを発見。助かった。レトルトのカレーとコンビーフの缶詰を買う。惣菜パンの試食があり、頂いた。うまかった。
ガソリンスタンドで道を訊き、ようやく網走湖畔のキャンプ場「呼人浦キャンプ場」に到着。管理人のいる時刻は九時から十七時。もうとっくに過ぎて、十八時をまわっていた。入場料は三百円。「管理人不在の場合は、係のものが巡回します」と記してあった。
<来るならどうぞ。来たら払いますんで>。
少しコソコソしながらテントを張り、食事の用意を始め、焚火ができそうなので陽のあるうちに薪を拾った。

カレーがうまくなかった。期待していただけに、残念。だがまあ、よしとしよう。小樽でフェリーを降りて以来、ずっと入浴できていなくて、自分でも嫌になるぐらいに汚れていたけれど、これもよしとしよう。書いているこの日記も追いつかずにだいぶたまって来ているけれども、これもよしとしよう。すべては明日。明日解決するのだ。明日は移動距離も少ないので、温泉にゆったり浸かれるし、日記もたくさん書くことができる。魚でも焼いてうまい食事をして、たくさん満喫するのだ。
木が湿っていたのか、焚き方がよくなかったのか、焚火もうまく行かず。今夜の僕のようにぶすぶすとくすぶるばかり。火が完全に消えるのを待ち、もう寝ることにした。とりあえず今日は、無事にタイヤを交換できただけでもよしとしよう。
1995旅日記 35[北海道]
年が明けてから今日までのことを記す。
1日は、朝早くから起きてテレビを観たりしてのんびりと過ごし、昼頃に家を出て、例年通りひとりで近くの神社を三つお参りして、帰宅後ものんびりと過ごした。
2日は、猫と虫と幕末が好きな「似た者同志は大変」な歌うたい:高松洋子と、京都で幕末巡りをした。
まず坂本龍馬が通った伏見の「寺田屋」へ。僕は二回目だったけど洋子ちゃんは初めてで、彼女の驚きと感激で胸一杯のリアクションを見て、なんだかすごくうれしかった。

次にふたりでワンカップ酒を飲みつ、伏見駅近くの「御香宮神社」へ行き、おみくじを引いた。僕は半吉で、洋子ちゃんは大吉だった。
次に四条大宮に行き、新撰組の屯所があった場所を目指した。人に訊きながら進んでいると、偶然路地裏に発見。そこで売られていた新撰組最後の生き残り:永倉新八の回顧録の文庫本を、迷わずに即買いした洋子ちゃんが素敵だった。
次に「八坂神社」でお参りした後で、幕末の志士達が眠る「京都霊山護国神社」を目指すも、十七時を過ぎており入れず。続いて近くの「清水寺」へ閉館ぎりぎりに行き、ライトアップされた境内を観てまわった。
それから河原町で、焼肉をたらふく食べた。僕と同じペースで食べる洋子ちゃんに感動した。
3日から6日までは、年賀状の返事を書いたり、昨年から続けている地味な作業に没頭した。途中から風邪をひいて、作業がはかどらずに苦戦する。
7日は近所の「TSUTAYA」で、以前から聴きたかったCDを制限なしに借りまくり、音楽にどっぷりと浸かった。
遅れている作業のことや、消せないいろんなことを忘れて、スピーカーに耳を傾ける。気持ちよかった。少しずつココロが満たされて行くのがわかった。
僕はきっと、音楽に飢えていたのだと思う。だがいつしか飢えていることすらもわからないままに流れ流され、音楽に満たされたい感情をどこかに置き去りにしてしまっていたようだ。気づけてよかった。大袈裟かもしれないが、もう少し遅かったら僕は耐性ができて、もう音楽なんかなくてもいい人間になってしまうところだった。それぐらいに飢えて、乾き果てていた。その証拠になるかは定かではないが、この日の夜音楽で満たされた僕は、いつもならすぐに手を伸ばしてしまう酒をもう一滴も呑まなくてもいいと、シラフの頭でそう思えたのだった。
借りたCDの中から気に入った音源をひとつにまとめて、「とても気になる歌集」というアルバムを作るのが、ニ十代前半から続けている僕の最高に楽しみな娯楽なんだけど、今回の二十五作目は久しぶりにいいのが作れた。
「boom boom beat」PUFFY
「For today」絢香
「ポリリズム」Perfume
「NEW LOOK」安室奈美恵
「WAO!」ユニコーン
「激しい雨」忌野清志郎
「Beauty Is...」PERSONZ
「涙のふるさと」BUMP OF CHICKEN
「空と君のあいだに」中島みゆき
「サヨナラCOLOR」SUPER BUTTER DOG
「一本道」友部正人
「ジュビリー」くるり
「いい日旅立ち」山口百恵
「熱き心に」小林 旭
「ほろ酔いで」河島英五
「Life's like a love song」矢井田 瞳
お暇な人は、この選歌で聴いてみてください。ある意味僕のライブです。意外や意外、素敵な感動あるかもです。
8日は、携帯電話の機種変更をしに行った。三年半使い続けた僕の携帯電話は、半年ほど前から常に充電器がなければまともに役目を果たせなくなってしまっており、最早携帯電話ではなくなってしまっていたので、前から気になっていたCASIO社の「G'z One」に新しく替えた。

早速家に帰り、使い方を覚える。頑丈だったり、月齢がわかったりといい面は確かにあるが、前の機種が意外と機能面で使いやすかったことがわかり、一喜一憂する。一長一短あるもんだ。その内また慣れるのだろうけど。
そして今日は、遅い仕事始め。帰りに近所の戎神社でお参りをした。
今年はどんな一年になるのだろう。改めまして私夜士郎を、本年もどうぞよろしくお願いします!
1995旅日記 目次
1995年7月10日
テントの中が暑くなり、起きてカメラの時計を見ると7時前だった。
外に出る。涼しくて、すがすがしい朝の空気がキャンプ場を包んでいた。まわりの人達はもうほとんどが起きていて、くつろいでいる。僕も顔を洗い、食事の用意を始める。
食事をすませて、出発の準備をする。沖縄以来のキャンプだったので、なかなか手際よく荷物がまとめられない。
もたもたしていると、昨夜僕の後ろの方で花火を観ていたおじさんふたりと女のコふたりの四人組の内のひとりの女のコが、オフロードバイクに荷物を積んで颯爽と出発して行った。てっきり四人は仲間で、一緒に旅をしているのかと思っていたのだが、そうではなかったのだ。それなら僕も話しかけておくべきだったと、後悔する。
そのコは僕の隣のテントの外国人女性と、英語で会話をしていた。湖畔のキャンプ場で、朝から英会話が聴こえて来たんだぜ!なんてGOOD MORNINGなんだ!GOOD GIRLなんだ!お近づきになりたかった。
ようやく荷物をまとめ、この日記もある程度記し終えたのでそろそろ出発しようとしていたら、今度は洗い場で、その外国人女性と話す青年の姿を見かけた。その青年はたどたどしい英語だったけど、なんとか会話が成立している様子だった。
僕はそれを見て、その青年の勇気をカッコよく思い、そしてうらやましく思った。その外国人女性が、よくよく見るとなかなかカワイイ人だったのだ。これからは英会話かなと、少し思った。
バイクに荷物を載せていると、「スイマセン、シャシンヲ」と、後ろから声をかけられる。振り向くと、あの外国人女性ではないか。てっきり写真を撮ってもらいたいのだなと思い、彼女のカメラを受け取ろうとすると、どうやらそうではないらしく、「アノウ、ウシロムイテクダサイ」と言われる。
<・・・後ろ?>。
そうか、わかった。僕の赤いジャケットの後ろには、旅に出る前に僕が黒のマジックペンで書いた「BE FREE!! ON THE ROAD AGAIN」の文字があり、どうやらそれを撮りたいらしい。日本語圏のキャンプ場で見つけた英語の文字が、彼女にとって懐かしく映ったのだろう。
写真を撮り終えると、彼女は僕に「OKアリガトウドウモ。GOOD TRAVEL」と言った。僕が「GOOD TRAVEL」の意味がわからないでいると、「ア〜、キヲツケテ」と教えてくれた。
伏し目がちに、日本語を一生懸命話してくれた彼女はとても素敵だった。それに対して、ひと言「サンキュウ」としか言えなかった僕はマヌケだった。でもなんだか彼女にいいことをしたような気がして、悪くなかった。
十時頃出発。まずガソリンスタンドへ。旅の初日に修理してもらったバイク屋で、アイドリングを上げてもらう際にキャブレターが少し詰まり気味だよと教えてもらっていたので、洗浄を兼ねてハイオクを給油した。
オホーツク海を左に南下する。宗谷岬までの日本海側と同様に海からの風は冷たいけれど、景色はなぜか暖かく感じ、僕はこっち側の方が好きだと思った。

しばらく行くと、雄武町から内陸部の美深町へ抜ける道道(県道と同じ)49号線の標識が見えた。僕が走りたい道は255線だった。地図のガイドによると、255線沿いのある場所にはヒマワリ畑があり、大変お見事らしい。なので一瞬どうしようかと思ったが、向かう方向は同じようなので、そのうち255線に出るだろうと思い、地図にない49号線をとりあえず進む。
しばらく行くと、山の中に入った。うっそうとした森林の中、道は続く。
家や人影もなく、正しき山奥だ。景色が美しい。本州の山の多くは大部分が植林された杉の木ばかりで飽きてしまうが、北海道の山は、いろんな種類の木が山や原野を覆い、彩って、実に素晴らしい。本来の山や森というものは、こうあるべきものにちがいない。
しばらく行くと寝心地のよさそうな草原を見つけたので、昨日と同様に寝転がる。夏のざわつきと、川の音しか聴こえない。目を閉じて、昼寝する。
一時間ほどしてから起きて、再び進む。
255線になかなか出ない。そうこうしてる間に下川町への道が現れ、道がふたつに分かれた。このまま地図にない道を走るのも不安なので、ヒマワリ畑をひとまずあきらめて、下川町への道を行く。
<確かに方向は同じだったはずなのに、一体どうしたことだ>。
バイクを停めて、念のため地図を開いてよく確かめてみる。その時ようやく気づいた。さっきまで走って来た49号線こそが、実は255線だったのではないのか。僕の地図にある情報はおそらく古い情報で、いつからか道の番号が変わったしまっていたのだろう。いや、そうとしか考えられない。なぜにもっと早くに気づかなかったのか。
ヒマワリ畑のためにさっきの分かれ道までもどろうかと思ったが、もうだいぶ距離を走ってしまっていたので、このまま向かうことにした。
しばらく行くと、地図のガイドには載っていなかったが、少し高い丘の上に展望台が見えた。向かう。だが道が途中から、舗装していない砂利道の坂になっていた。砂利道はタイヤが砂利に流されて、とても走りにくい。それに僕のバイクの後輪はかなり擦り減っていて、舗装された道路でも慎重になるぐらいなので、ここは無理をしないで、展望台へ行くのはやめることにした。
寒かった海岸沿いに比べて内陸部はとても暖かく、暑いぐらいだ。服を脱ぎ、腕をまくり、進む。
少し行くと下川町に着き、そこから名寄市街までは早かった。本日の目的地は名寄近くのピヤシリ山ではあったが、地図を見ると、49号線(255線?)の出口が名寄の北部にあり、ヒマワリ畑までそう遠くない距離だったので、まあまあの寄り道ではあったが、行ってみることにした。
名寄はのんびりした所で、山に囲まれた街だ。山の麓にはなだらかな丘が続き、牧場や、ジャガイモ畑が広がっていた。ジャガイモの白い花がとてもきれいだった。

ようやくして、ヒマワリ畑のある付近に到着する。だが、どこにもそんな風景はない。時期が早かったのか、それとも根本的に道がちがったのか。もういい加減探すのをやめて、ピヤシリ山に向かうことにした。
地図にも載っている近道を見つけたので、進む。始めの方は、舗装されていないもののなんなく進める道だったのだが、やがて砂利道に変わり、走行が難しくなってきたので、断念して元の所まで引き返す。やれやれだ。
ピヤシリ山の頂上付近にはキャンプ場があり、今夜はもうそこに泊まることを決めた僕は、山に行く前に食料を買ってしまおうと、小さなスーパーに寄った。
一昨日からレトルトカレーや缶詰ばかりで飽きていたので、ラム肉を買って、焼いて、ビールでパーッとやることにした。だがこの暑さ、しかも馴染みのないラム肉。山に行って、キャンプ場に行って、テントを張って食事の用意をするまでの間、ざっと二時間はかかるだろう。果たして保つかどうか心配になり、レジにいた店のおばさんに訊いてみると、「やめときな」と渋い顔で言われる。
それならばとラム肉はやめて、コンビーフの缶詰と納豆とキノコを選び、再びレジに持って行くと、「どこに泊まるの?」とおばさんが訊くので、山のキャンプ場に行くのだと説明すると、「あそこはやめときな。ダメだよ」と言うではないか。ならばどこか他にキャンプ場があるのかと訊くと、「ここから十五分くらいの所に、いいちゃんとしたキャンプ場があるから、そこに行きなさい」と言われ、さらに「そこだったら肉も大丈夫だよ」と言うので、やはり焼肉が食べたいし、こんなにはっきりと言うのだから、きっと何か根拠があるのだろうと思い、ここは地元の人の意見に従うことにした。
そんなこんなで山のキャンプ場での宿泊はあきらめたものの、ピヤシリ山へは行っておきたい。なんでもピヤシリ山は、三百六十度観渡せる大眺望の山なのだそうな。これは行かねばなるまい。山へ向かう。
スキーのジャンプ台があり、その先からは舗装が途切れ、砂利道の坂が現れた。
<もういい加減にしろよ!>。
頂上まではかなりある。断念して、道を引き返すことにした。
僕の地図のガイドには、ご丁寧にも舗装道路になっているかいないかの情報が記されており、便利ではあるのだが、この道と、そして先ほどの近道に関しては記されていなかった。これを編集した人間は、本当にこの地に足を運んだのだろうかと疑ってしまう。255線のことにしても、ヒマワリ畑にしてもそうだ。今後は、あまりこの地図にばかり頼りにすぎないようにしようと思った。
おばさんのいるスーパーにもどり、ラム肉とキノコを買って、おばさんに勧められたキャンプ場へ向かう。
ほどなくして到着し、施設の受付事務所へ。入場料は五百円だった。少し高いが仕方がない。
キャンプ場の名前は、「ふうれん望湖台自然公園キャンプ場」。キャンプ場というよりは、立派な公園といった風情。広大な敷地の中の一角が、テントの設置場所となっていた。
なんだか奇妙である。僕の知るキャンプ場ではない。まるで駐車場ではないか。車一台分が駐められる舗装された敷地の隣には芝生と砂地があり、それが等間隔で並んでいた。そうなのだ。ここは駐車場とキャンプ場が一緒になった、いわゆる“オートキャンプ場”だったのである。
噂には聞いていたが、これはひどい。キャンプ版のカプセルホテルといったところか。自然の立地にあるならまだしも、人工的に整備された土地の中にあるので、余計につまらなく思えた。
それにしてもあのスーパーのおばさんは、どういった基準で僕にここを勧めたのだろう。もしかしたら、ここの施設の人とつながりがあったのではないだろうか。なんだかひどく損をした気分になった。
少しふてくされながらテントを張り、ビールを買うために受付事務所の自動販売機へ。500mlで四百二十円。高い。施設の外まで買いに行ってもよかったが、妙に肉の状態が気になり、もうここで買うことにした。
買ってすぐにビールで肉を冷やし、米を炊いて、食事の準備を進める。ここのところ、沖縄で不調続きだったバーナーの調子が、修理にだした甲斐あって調子がいい。
やがて夕食完成。やけくそ気味にビールを飲み、ラム焼肉とキノコのみそ汁を食べた。うまかった。
陽が落ちて暗くなったので、洗い場の電灯の下、ほろ酔いながらこの日記を記していると、猫が現れて、僕に「ミャー」と言った。次に裏の方でガサゴソと音がして、また猫かと思いきや、現れたのはなんとキツネだった。
初めて見る野生のキツネだった。正式にはキタキツネ。二匹はすぐにどこかへ行ってしまい、今度は僕のテントの方から物音がしたので行ってみると、キツネがラム肉の残りダレをテントから少し離れた所まで運び、ペロペロとなめていた。さっきの猫もまた現れたので、二匹は友達なのだろうかと思い猫に訊いてみると、猫は「ミャーミャーミャー」と言った。
眠くなったので、テントに入り横になる。
今日はいろいろとうまく行かないことがあったけど、こんな日もあるのさ。何はともあれ、無事でよかった。
1995旅日記 34[北海道]
演日=2009年12月20日(日)
会場=テハンノ
他出=井上 卓
12月20日のライブが終わった。お越しくださった皆様、ありがとうございました!
ついにやって来た井上 卓さんとのツーマンライブの日。長年のつき合いながら、イベントやブッキングでの対バンはあったものの、今まで一度も向き合ってツーマンライブをしたことがなかった。予定していた練習量もすべてこなし、いつも過敏になりがちな緊張も、意識改革により大幅回避。ほぼ万全といえる状態で家を出た。
十七時テハンノ着。しばらくして対バンの井上さんも到着し、順番を決める。
まず浅田店長が、「どうしましょうか?」と井上さんに意見を求めると、「どっちでもええよ〜」と井上さんは朗らかに言い、続けて、僕が後にした方がいいのではないかと提案した。昔からテンション燃焼にやや時間のかかる僕を気づかってのこと。そうすることに決まった。
後発でよかったと安堵した僕ではあったが、井上さんの「どっちでもええよ〜」発言には順番などにはこだわらない余裕の貫禄というか、十歩も二十歩も先を行く感があり、思えばあの時から井上さんとの戦いは始まっており、僕はすでに苦戦を強いられていたように思う。
リハーサル。問題ない。僕がほしい音をだせた。選び抜いたこの音で挑む。
続いて井上さんのリハーサル。今までに何度もライブに足を運び、聴きなれていたはずの井上さんの音が、まるであたかも初めて聴くかのような新鮮さと、迫力で聴こえるのはどういうわけか。
<次元がちがう>。今さらながら、改めて思った。
単に音の出力の差ではない。立体的に洗練され、裏付けされた音の説得力がある。だが僕には僕の音楽があり、井上さんには井上さんの音楽があるのだ。比べようのない互いの芸術と表現を思い、目に見えない井上さんからの打撃をなんとかかわし、その場をしのいだ。
店を出て、コンビニへ。やたらと寒い日だった。過敏な緊張こそないものの、なぜだろう、言い知れぬ寂しさみたいなものを僕は感じていた。侍が切腹する前はこんな気持ちなのだろうか。
宣伝チラシをコピーして、缶コーヒーとチョコ菓子を買い、店にもどる。
十九時開場。お客さんがなかなか来ない。今夜は「M-1」の放送日。開演までの一時間が長く感じた。
そんな中、お越しくれたお客さんを待ちに待ち、三十分押しで開演した。
一番目は井上 卓。
リハーサルの仕上がりを観ていたのである程度は想像できていたが、実際はそれ以上だった。いや僕はこの日、今までに僕が観て来た中で一番すごい井上さんを観たのかもしれない。芸術や表現をも凌駕した、湧き上がる底知れぬチカラ。リハーサルで思った時のように、初めて聴くかのような新鮮さと、迫力だった。
目の前で繰り広げられる演奏が、嵐の如く目に見えない打撃となって、対する僕に容赦なく打ちつける。妄想癖のある僕なので大袈裟かもしれないが、でも僕は観戦中、本当に何度も何度も殴られたような錯覚を覚えた。ガードを上げて防御するも、かわし切れない。一発の重いコークスクリューパンチが、大粒の雨のように降り注いだ。
後半打撃の雨がやや治まった。本人曰く、どうも始めから全開で飛ばしすぎたようで、終わりの方で「(右の)腕がばてた。限界や」と言っていた。だが僕にはそれが、謙遜の言葉にしか聴こえなかった。ばてていようと、あれだけの迫力で乱れない演奏ができていれば、何も問題はない。逆にそういった発言さえも余裕の貫禄に聴こえ、限界まで腕を酷使するほどの領域にたどり着いた、井上さんのさらなる成長を思った。
僕と井上さんとの出会いは、十五年前の秋に遡る。五年間のストリート修行を経て開始した、通算二回目の僕のライブはある野外イベントに決まっていて、それに出演するにあたり、そのイベントを企画していた僕の知り合いが是非僕にぶつけたい人がいるとのことで呼んでくれたのが、井上さんだった。井上さんはバンドからソロに転向して間もない頃で、現在のようなスタイルではなかったが、僕の中でシブいロッカーとして、とても印象に残った。
それから三年半後の春のこと。僕がよく出演していた吹田の「FREE BIRD」と、天王寺にあった「不思議の国のアリス」との合同イベントがあり、僕は「FREE BIRD」の代表のひとりとして、井上さんは「不思議の国のアリス」の代表のひとりとして出演し、そこで僕達は再会した。
あの日のことは、今でもはっきりと覚えている。その時すでに現在のスタイルを確立していた井上さんのライブを観て、僕は完膚なきまでに打ちのめされ、自分がそれまでにして来たことがとても無意味に思え、歌を辞めようかと本気で考えたほどに落ち込んだ。
この約十一年の間、僕もそれなりに積み重ねて来たので、もちろんあの時のような絶望的な敗北感はなかったが、十一年経ってもさらに勢いを増していた今夜の井上さんを観て、あの時と似たような余韻を感じた。
ライブを終えた井上さんに声をかける。
「十一年前の時のようでした」。
すると意外なことに、井上さんは僕にそっと耳打ちして、こんなことを言った。
「俺ばてたから。勝てるで!」。
弱気な僕を見透かした上での励ましか、それとも言葉の通りの本意だったのかは定かではないが、僕のひとりよがりの勝手な妄想だけではなく、井上さんも今夜のツーマンライブを、僕との“戦い”として認識していたことがうれしかった。
二番目は僕。
演りなれたテハンノで、馴染みのお客さんもいるというのに、僕はひどくアウェイ感を感じていた。会場のすべての人が僕を否定している気がした。なぜそんな気になるのかはわかっていた。誰のせいでもない、僕自身が気持ちで井上さんに圧されてしまっていたから、そんな風に思うのだ。だがそんなことが頭ではわかっていても、すぐにそれを払拭できるほど人の思い込みは単純ではない。ひたすら冷静になることに集中し、演奏した。
<へへっ。こちとらどのみち、最初っからやけっぱちのストリート上がりアルコールドランカーよ!>。
いつも以上に練習した甲斐あって、演りにくい状況なのに自分でも驚くほどうまく演奏できた。前回おもいっきり失敗した「イマジン君」も、問題なかった。だがやはり、気持ちが今ひとつ乗って来ない。
「ピキピキロック」の演奏中だった。そういえばこの歌は、アウェイ感をぶち壊すために作ったことを思いだした。
「君が唱える僕への言葉は〜僕にとっての君への言葉だ!」。
自分が勝手に創りだした妄想のアウェイ感ではあるが、僕は僕を縛る不自由にさせるもの、不快にさせるものに対し、渾身の言霊をぶつけ、放った。
それから何かがふっ切れた気がした。最後の「いのち」まで冷静を保ちながらライブに没頭し、全力で歌い切る。
ステージを降りて夜士郎エンド(僕的ライブの終わらし方)をすると、目の前に井上さんがいた。思わず手を差しだし、井上さんと固い握手をする。
井上さんが、井上さんの好きな僕の歌「紫花」をアンコールで歌ってほしいと言った。まったく仕込んでなかったし、基本的に特定の人のアンコールリクエストには応えないようにしていたのでどうしようかと思ったが、今夜僕に全開でぶつかって来てくれた井上さんに感謝の気持ちを込めて、その歌を最後に歌った。
全体ライブ終了。
終わった。ノックアウトはされなかったが、最後に判定で僕は負けたのだと、湧き起こる妄想の中で思った。だが三十九歳五日前の全力をだし切ったのだから、どんな評価であれ悔いはない。
腰が重だるく、酒が進まなかった。こんなライブ後は珍しい。
僕は皆の会話に入れずに、ひとり黙り込み、あることを考えていた。それは、今までに何度もライブに足を運び、観なれていたはずの井上さんのライブが、なぜ今夜はまるであたかも初めて聴くかのような新鮮さと、迫力で僕に届いたのかということ。もしかしたら僕は約十一年前のあの日以来、井上さんを追いかけて来たつもりが、実は井上さんから逃げ続けて来たのではないだろうか。あの日味わった自信喪失の脅威から逃れるためにずっと。ツーマンライブという形で向き合ったことで、気持ちがあの日にもどったのか。
わからない。
わかったのは、歌とライブへのぶすぶすとくすぶった執念の火種が、まだまだ僕の中にあったこと。まっ白く燃え尽きるにはまだまだ早すぎたこと。そして、明日からまた始めるのだということ。
<披露歌>
・BLACK DOG
・ペケ〜「いかないで」編〜
・キリギリス
・イマジン君
・ピキピキロック
・夢なんだろ
・さよなら僕のブルース〜「あしたのジョー〜美しき狼たち〜」編〜
・いのち
・紫花
1995旅日記 目次
1995年7月9日 後編
ノシャップ岬の近くには日本最北端の稚内温泉があり、予定ではそこに行くつもりだったが、運転中のこの寒さでは湯冷めは必至。その後の移動を考えると気が重く、温泉に行くのをやめて一旦は稚内市街へと向かった僕ではあったが、やはり温泉が気になり、それならばと、当初予定していた今夜の宿泊地を変更し、温泉の近場に泊まることを思いついた。というのも、来る途中でノシャップ岬の近くにライダーハウスを見つけていたのだ。さっそく向かう。
ライダーハウス到着。一階が雑貨屋になっていた。店員のおじさんに宿泊料を訊ねる。千五百円だった。民宿やホテルに泊まることを思えば破格の料金だが、昨夜が無料だっただけに、断念する。すると親切で人のいいおじさんは、近くの別のライダーハウスを教えてくれた。昨夜泊まった「みつばち」系列のライダーハウスとのこと。無料ではないが、六百円。とりあえず行ってみることにした。
迷った。稚内市街のバイク屋で、道を訊いたりしながら探す。
しばらく行くと、あった。とても古そうな木造の建物で、民家の佇まいだ。その建物の前でふたりのおじさんが、自転車を修理していた。僕に気づき、「こっちこっち」と案内される。
なんとなく用心してバイクを敷地に入れずに駐めて、店主らしき五十歳ぐらいの角刈りのおじさんに、わかってはいたが、念のため宿泊料を訊ねる。すると、六百円ではなく五百円だった。いいじゃないか。気持ちが傾いた。
ちなみに稚内温泉の入浴料を訊ねてみると、「四百五十円だ。高いだろう。銭湯行け、ここの近くの」とおじさんはぶっきらぼうに言い放ち、続けてこんなことを僕に言った。
「お前、・・・・・(よく聞きとれない)・・・・・早く来れば・・・・・でホタテ貝食べ放題だったのにさ」。
早くここに来ていれば、ホタテ貝を食べ放題で食べさせてくれたということなのだろうか。「ああそうですか」と、よくわからないままに相槌を打つ。
「そうさ、十四時までに来れば。したけど、お前の分はない!」。
そんな話は初耳で、行くなんて約束もしていないのに、なんでこんな嫌みな言い方をするのか。ムッとした僕に、さらにおじさんは続けた。
「そうだカニも・・・・・食べ放題だ・・・・・お前の分はない!」。
「はあ、そうですか」。
そこにライダーハウスからひとりの青年が出て来て、「今から仕事行く。一時に帰るからね、おじさん」と、おじさんに声をかけた。「あっ、そうかそうか。行って来い」とおじさんは言って、青年を見送った。留萌のライダーハウスにいたメガネヒゲ面男のように、彼もここのライダーハウスの斡旋により、近場で働いているのだろう。自転車を修理していたもうひとりのヒゲのおじさんも、同じく労働滞在者なのかもしれない。
角刈りのおじさんが、また食べ放題の話を始めた。どうやらホタテ貝やカニの食べ放題はここではなく、別の所での話のようだった。ならば、なおさら僕にこれ見よがしに言う必要はないのに。
角刈りのおじさんとの話しがいい加減億劫になってきた頃、ここに泊まることを決めるよりも、まずはどっちにしろ温泉に行かなければならないことに気づいた僕は、「おじさん、温泉行ってくるわ」とおじさんに言い、ひとまず行くことにした。「ああ行ってこい。好きにしろ」と、おじさんは言った。
ライダーハウスを出て国道に向かうまでの数十秒間、僕は改めて考えてみた。日本最北端の温泉に入れば、記念になるだろう。だけどいくらここから近いとはいえ、20Kmぐらいは離れているのでやはり湯冷めが心配だし、よく考えれば、たかが日本の最北端にあるだけのことじゃないか。最北端がそんなに偉いのか。
かなり極論に達してしまったが、こんな思考になったのもあのおじさんに原因があると思われ、もしかしたら根はいい人なのかもしれないが、僕はついていけなかった。あのおじさんは、初対面の僕にもあんなものの言い方をする変わった人だから、もしかしたらライダーハウスの名物おじさんなのかもしれなくて、一時まで働くあの青年や、ヒゲのおじさんのように、慕う人や好む人がたくさんいるのかもしれない。だけど僕はついていけない。あのおじさんに気に入られなかったら、ライダーじゃないと言われてもいい。この想いは変えようがなかった。
国道を右へ。温泉へ行くのをやめて、即ちおじさんのライダーハウスにも泊まらないと決断した僕は、もうだいぶ陽も傾いてきたが、元々予定していた宿泊地である、宗谷岬から南に下った所にあるキャンプ場を目指すことにした。
稚内市街を抜けると、砂浜が続いた。海からも陸の方からも、風が吹きつける。
十六時半頃宗谷岬に到着。さっきまで最北端を否定していた僕ではあったが、ここだけは別格だ。なんてたって、日本の最北端なのだから。温泉と同じように、最北端にある土地というだけじゃないかといえばそれまでだが、温泉とはちがうのだ。
ここが日本の北の最果てか。最北端の碑をしげしげと眺めていると、二組ほどに写真を撮ってほしいと頼まれた。「ここでバイトしようかな」と僕が言うと、みんな笑った。僕も写真を撮ってもらう。

バイクにもどると、オフロードバイクのライダーがいた。彼は今日ある祭りに行って、そこでホタテを食べて来たのだそうな。あのおじさんが言ってたのは、祭りのことだったのか。聞くと、やはりあのおじさんのいるライダーハウスの滞在者だった。
西から射す陽が、牧草地を黄金色に染めていた。いくら走っても、キャンプ場の標識が見えて来ない。地図を確認すると、とっくに過ぎていた。もうひとつのキャンプ場が30Km程先にあったので、そこを目指す。
湖の湖畔にあるキャンプ場の近くまで行った所で、ボンッボンッと大きな音が聴こえた。空砲の花火だった。
キャンプ場の手前まで行くと警官がいて、今日はイベントがあってここからは入れないから、迂回するように言われる。
迂回して、ようやくキャンプ場に到着。出店が並び、多くの人がいて、中央にステージが組まれていた。
入場料の二百円を払い、テントを張る。十八時を少しまわっていた。
イベント会場に行くと、「クッチャロ湖祭り」と看板が出ていた。オフロードのバイク乗りが言っていた祭りとは、どうやらここのことのようだった。
テントにもどり夕食の支度をしていると、演歌歌手の歌う演歌が聴こえて来た。目の前の湖を夕陽が染めている。とても幻想的だ。この湖には、白鳥が飛来するそうな。

食事をすませてこの日記を書いていると、これから花火を打ち上げるというアナウンスの後で、夜空に大きな花火が上がった。
酒を飲みつ眺める。ご丁寧にも、打ち上げの前には必ず、「次の花火はプログラム□番□尺玉□発」と説明が付いた。

完璧な夜だった。花火をこんなにも間近で、しかも始めから観ることなんて、生まれて初めてなんじゃないだろうか。イベントや花火がなくても雰囲気のいいキャンプ場だし、もう何も言うことはなかった。
あえて言うならば、僕の隣に樹里ちゃんがいてくれたらなあと思った。樹里ちゃんというのはテレクラで知り合った女のコで、電話代が恐いと言う僕に、「かけてあげる」と言って一旦電話を切り、すぐに彼女の方からかけ直してくれたコだ。そんな律儀でやさしいコは初めてで、感動した僕は真剣な交際を夢見たのだが、その後はなんの音沙汰もなく。その時の会話の中で僕は、樹里ちゃんに北海道に一緒に行こうと言っていたのだ。
<この花火を一緒に観たかったなあ>。
花火が終わり、寂しくなったのでもう寝ることにした。
1995旅日記 33[北海道]
1995旅日記 目次
1995年7月9日 前編
朝起きると、昨夜夜中に起きた時には確かに寝ていた人達の姿はなく、僕と「FZR」の人だけになっていた。
昨日ここを訪れた時、二階の部屋は蒸し暑かったが、夜はクーラーがかかったように快適な涼しさだった。そんな快適な睡眠環境であったのに、僕はあることをやらかしたことで、気が滅入っていた。
あることと言うのは、寝言だ。僕は子供の頃から、緊張したり、慣れない所で寝ると、寝言を言うクセがある。それが一般的な寝言のようにムニャムニャとカワイイものではなくて、僕の場合大きな声で叫び散らしてしまうのだ。寝言を言った後、たいがい自分の声で目が覚めるので、自覚症状があるのがまだ救いだが、まわりの人はたまったものではない。
僕が寝ていた所からだいぶ離れた所で寝ていた「FZR」の人に、試しに訊いてみた。
「ああ、言ってましたよ」。
夢であってほしいと思ったが、やはり現実だった。もしかしたら他の寝ていた人達は、僕の寝言に驚いて出て行ったのではないだろうかと、本気で考えた。
「FZR」の人は調理道具や食料を持たずに移動しており、昨夜もバイクの修理に時間をとられ食事ができなかったとかで、お菓子を食べていた。昨日留萌の手前で別れる際、「もし今晩また出会ったら、焚火でもしましょう」と僕の方から言っていたのにも関わらず、約束を忘れてさっさと寝てしまった僕は、寝言の件も兼ねて、お詫びに「朝メシよかったら食べませんか?」と、彼に朝食をご馳走することを提案してみたのだが、「もうコンビニも開いていると思うので。それにもう行かなくては」と、彼は丁重に断った。
礼文島へ行く「FZR」の人を見送り、顔を洗い、八時頃朝食の用意をする。
オフロードバイクの人が、テレビを観ながら食事をしていた。何か呟いている。聞きとれない。どうやらひとり言のようだ。だがひとり言とは思えないぐらい、会話並に回数が多い。そもそもひとり言は、基本的にひとりでいる時に発するからひとり言なのであって、こうして同じ空間に他人の僕がいるのに気にならないのだろうか。おそらくはオフロードバイクで山の中に分け入り、何日も孤独に耐えながら旅をしているうちに身についたのだろう。小さい頃からひとり旅をしていたとも言っていたから、そのどちらかであり、その両方なのだろう。
そんな彼に僕は、少し親しみを覚えた。僕の叫び寝言と同じだ。遠縁の仲間だと思った。彼もそう思ったかは知らないが、昨夜は僕からばっかりだったのに、今朝は彼の方からいろいろと話しかけて来た。
「もう(二階に)他はいないの?」。
「あっ、はい」。
朝食を食べ終えて二階で出発の準備をしていると、彼も上がって来て、荷物の整理を始めた。
「もう行くの?」。
「あっ、はい」。今度は僕が訊く。
「ここには長かったのですか?」。彼も今日出発するのだ。
「うん、タイヤ交換しようと思って寄ったんだけど、昨日やっと品物が届いてね。やっと交換できたんだよ。オフロードは(タイヤが)減るのが早いからね」。
オフロードバイクの人に「お先です」とあいさつをして、ライダーハウスを出る。外は暑かった。近くのガソリンスタンドで給油をして、再びライダーハウスにもどり、写真を撮ってから出発する。

232号線を北へ。日本海を左手に海岸沿いを進む。海からの風がかなり冷たく、Tシャツにジャケットではもたなくて、すぐにネルシャツとベストを着込んだ。
波打ち際にカモメか海猫かわからない鳥が、およそ300mに渡りずらり並んで海を眺めていた。バイクを停めて砂浜へ行き、カメラ片手に近づく。
しばらく変化はなかったが、僕が50mほど近づくと彼らは一羽ずつ飛び上がり、300mほど離れた波打ち際に降りて行った。
何度挑むも同じこと。僕が歩みを止めると彼らも止まり、少し進むと羽を上げて飛ぶ構えをする。すっかり警戒されてしまった。

再び走る。
やがて道が、内陸部に続く国道と、海沿いに続く農道のふたつに分かれた。道北は海沿いを走ることに決めていたので、迷わず海沿いの道を選んだのだが、すぐに舗装されていない道を走ることになった。このままずっと続くのだろうか。
やがて舗装された道になり、果てしなく真っすぐに伸びていた。道の脇は放牧地なのだろうか、草原が広がっている。
バイクを停める。太陽の陽射しが暖かく、雲雀がピーチクパーチクとさえずり、海鳴りが聴こえる以外他に何も聴こえない。
草原に寝転がる。ボーッと空を見上げていたら、気持ちよくていつの間にか眠ってしまった。
どれだけ時間が経っただろう。顔が陽に灼けて、ヒリヒリした。今日はたくさん走る予定だったのに、思わぬ寄り道をしてしまった。再び走る。
しばらく行くと、農道のためか一般車輛進入禁止の標識が見えたので、仕方なく元の国道までもどることにした。
天塩町に入った所で、ここでも道がふたつに分かれた。地図を見ると、今度は農道ではなく、国道ではないが正規の道として海沿いの道が続いていたので、国道からはずれ、再び海沿いの道に出てひたすら走った。途中、北緯四十五度の記念碑があった。
ノシャップ岬に到着。大きな灯台と、水族館と、五、六軒の店があるだけで、賑わいに欠けていた。景色も楽しめず、とりあえずセルフで写真を撮り、足早にそこを後にした。

1995旅日記 32[北海道]
1995旅日記 目次
1995年7月8日 後編
ガソリンスタンドで給油して、札幌市内を抜け、国道232号線を北へ。
白い綿のようなものが道に舞っていた。ポプラ並木の向こうにタンポポがたくさん咲いているのが見えたので、タンポポの綿帽子かもしれない。
信号待ちで停まった時に隣の車を見ると、後部座席に四歳ぐらいの女の子がいて、僕に向かって舌をだしておどけていた。僕も舌をだして応える。次にジャンケンをした後で女の子は、両手を使い、変な顔を作った。僕も変な顔をして見せると、うれしそうに笑っていた。
原野なのか、畑なのか、牧草地なのかよくわからない荒野が両側に続く真っすぐな道を走る。平均時速70〜80km/h。すれちがうバイクがピースサインをくれるので、僕も返す。
やがて海が見えてきた。日本海だ。今度は海岸沿いの道をひた走る。
切り立った崖の上の見晴らしのいい休憩所に寄る。僕の他にも、たくさんのバイクが駐まっていた。ぼんやりと海を眺め、日向ぼっこをしてまた走った。
今夜の宿はどこにしようかと考える。留萌から少し北に行った所に、キャンプ場があるらしい。とりあえずそこを目指すことにした。
留萌の町に入る手前の、道路脇の空き地で休んでいると、「FZR」に乗ったバイク乗りがやって来た。名古屋から来たという二十五歳の男は、太平洋側のフェリーで苫小牧から道内入りしたのだそうな。
彼は「ホクレン」という、北海道にだけ存在するガソリンスタンドで給油した際にもらえる地図を持っており、それによると、留萌にもライダーハウスがあるとのこと。彼は今夜の宿を、そのライダーハウスか、僕が目指しているキャンプ場のどちらかで迷っていた。
僕もどうしようかと思った。快晴なのだが気温は低く、走っていてかなり寒かった。日中でもこの調子では、朝晩はもっと冷え込むだろう。おまけに海沿いでは風もきっときついだろうし、この際キャンプ場は避けた方が無難かもしれない。だがライダーハウスは宿泊料が無料の所もあるそうだが、旅館の素泊まり並みの値段の所もあり、あと基本は集団で寝泊まりする所なので、わずらわしい人間関係に巻き込まれるとも限らない。なので寒くても、無料で落ち着いて眠れるキャンプ場も捨て難く、僕も彼と同様に迷った。
だいぶ陽が落ちて、十七時ぐらい。いつまで迷ってもいられない。とりあえず留萌まで行こう。彼は僕と一緒に行きたがったが、せっかくのひとり旅なので「ひとりで行きたい」と告げると、彼は了承して出発して行った。僕も少ししてから出発する。
海水浴場の駐車場に、ライダーハウス「みつばちハウス留萌ARF」への案内が書かれた看板を見つけた。留萌駅前付近とのこと。宿泊料が高かったり、混み合っていたりして雰囲気がよくなかったら、その時は覚悟してキャンプ場へ行けばいい。とりあえず行ってみることにした。
古ぼけた商店街の一角に「みつばちハウス留萌ARF」はあり、わりとすぐに見つけることができた。中に入ると、駐車場にバイクは三台しかなく、とてもひっそりと静まりかえっていた。奥の部屋に行くと、管理人だろうか、三十歳ぐらいの人がソファーに寝転びながら漫画を読んでいて、僕に宿泊の手続き方法を教えてくれた。
宿泊料は聞かなかったが、混み合ってなく雰囲気がよさそうだったので泊まることに決めた僕は、申込書に名前と住所と免許証の番号を書いて、教えられたように、店の向かいのカメラ屋に持って行った。「はいわかりました」と言われ、宿泊料は取られなかった。
バイクから荷物を下ろし、二階の宿泊所へ上がる。ムワッとした蒸し暑い部屋で、四十畳近くありそうだった。広い。漁船のオールらしきものが転がっていて、奥に布団が山積みにされており、先人の宿泊者達のものと思われる荷物が各所に並べられていた。
空いた所に荷物を置いて、食事の調達に出かける。
留萌の町を歩く。申し訳ないほどに小さな町だった。
スーパーに入る。試食コーナーに、メロンやブドウがあった。けっこう食べる。今年初めての味覚だった。
モヤシとフライドチキンがそれぞれ百円で売られていたので、買う。北海道はもっと物価が安いと思って期待していたのだが、大阪とあまり変わらなかったので、少しがっかりした。
ライダーハウスにもどり、米を炊こうと一階の奥の間へ。台所付きのその部屋は共同の憩いの部屋となっていて、テレビ、ソファー、テーブル、イスが置かれていた。
メガネをかけたヒゲ面の男がいて、くつろいでいた。あいさつを交わし、話しをする。
彼はこのライダーハウスにもうだいぶ長く滞在していて、ライダーハウスのオーナーが別に経営しているカズノコ工場でアルバイトをしていた。ライダーハウスは、主にバイク乗りや自転車乗り、または徒歩で旅をする人のために、ボランティアで宿を無料かもしくは安価で提供するのが本来の目的とされているが、彼が言うには、人手不足の人材を確保するのが本音らしい。もちろんこれは強制労働ではない。カネに困った旅人に宿を提供して、働ける人を募り、過疎化で若者が減った穴を給与付きで埋めてもらうのだ。助ける代わりとして、助けてもらう。どちらにとってもマイナスではない。なんてわかりやすくて、やさしい構図なんだ。北海道だけでなく、全国にライダーハウスがあればいいのに。そうしたら街の浮浪者達も旅人になって、楽しく暮らせるだろう。
彼の昼食はすべて無料で、なんでも食べていいらしく、しかも土日はご馳走が出るそうで、今日は牛焼肉の食べ放題だったそうな。
メガネヒゲ面男と僕が話していると、もうひとり男が現れた。バーナーで米を炊く準備を終えたその男に、今度は話しかける。
彼はオフロードバイクに乗って旅をしており、昔はチャリダー(自転車乗り)だったが、バイクに乗り替えてからも、何度も北海道に来ている旅のベテランだった。
荷物の話になった。昔は旅先で想定されるいろいろな心配から、僕のようにたくさんの荷物を積んで走っていたが、険しい林道などを走ることもあるので、今は最低限の荷物に抑えているとのこと。だが最低限だけれども、不足のない充分な荷物を、今では選べられるようになったとか。
「ここまで何年かかったか」。
うらやましく思った。僕が旅をする理由のひとつには、「どれだけの荷物があれば、人は生きて行けるのか」という課題を追究する目的がある。バイクに荷物を積むことでまだまだ甘んじている僕は、徒歩で旅をする人や、山登りする人に比べて、無駄なものがかなり多い。背負えなくもないが、すぐにフラフラになる重さだ。生きて行くのに充分な荷物を背負って自由に進めるなんて、どんなに素敵なことだろうと僕は考える。旅をしながら荷物と向き合うことで、僕もオフロードの彼のように、最低限の荷物でも胸を張って充分と言えるようになりたいと思った。
米を焚き、夕食の支度をしていると、後ろから声をかけられた。留萌の手前で会った、「FZR」の男だった。この時間まで現れなかったので、てっきりキャンプ場へ行ったと思っていた。聞くと、かなり擦り減っていたタイヤを、近くのバイク屋で交換してもらっていたのだとか。
夕食を食べ終えてテレビを観ていると、とても眠くなってきた。まだ二十二時ぐらいだったけど、二階に上がり、布団を敷いて、本格的に眠る。
夜中に目が覚めた。一時だった。薄暗い灯りの中、部屋を見渡すと、五、六人ほど人が増えて、皆眠っていた。
ノドが乾いていたので下に行き、水と酒を飲みながら、この日記を書いた。水は水道水だけどとてもおいしくて、七杯ぐらい飲んだ。
部屋の壁には、ここを訪れた旅人達のメッセージがたくさん書かれていた。まだ書くスペースがあったので、僕も書く。
それからまた眠った。とても長い一日だった。
1995旅日記 31[北海道]